「みんな違ってみんないい」に反発しちゃう心の声

エッセイ

YouTubeにコメントいただいた。
「他と比較して褒められても、ねぇ。
みんなちがってみんないい、です。」

人としての正しさ

私が動画の中で「他と比べてあなたは〇〇だ」と発言したようで
それに対してのご意見をいただいた。
ただ何気なく動画を開いたのか
もしくは「スッキリしたい、癒されたい、気付きを得たい、励まされたい」など、目的があって開いたのか、
いずれにしても見終わってモヤモヤさせられただなんて、」ほんと嫌だっただろうなと、想像すると申し訳ない。

「みんな違ってみんないい」これって、絶対正解。
文字通り正しい。だってほんとにみんな違うし。そしてみんないい。
常にその正しさに気づいていて、ぶれずにそう思えているなら人間的にも正しい。

正しくないとわかってても出てくる心の声

動画は不特定多数の人の目に触れるので正しいことを発信しなくちゃと思ったりもして、時々悩むんだけど、私はいつも思ってることがある。
正しくないってわかってるのに”心”が動いちゃうときがある。
独りよがりで歪んでるってわかってるのに”心”が黙ってくれないことがある。
その、心にいつでも共感したい。
知性的には正しくて人格者で立派なんだけど、心はときどき呆れるほどの未熟者だったりする。
その未熟な心が人間くさくてかわいらしく、魅力的。
知的な正しさの前に、つい隠してしまいがちな”心”に共感して「その未熟さこそが最高だよ」と言い続けたい。

未熟な心の声たち

例えば・・・

かえるちゃん
かえるちゃん

なんであの人ばっかり、ズルい

めがねちゃん
めがねちゃん

私だって、こんなにがんばってる

カチューシャ
カチューシャ

え?なんでこんなこともわからないの?

みんな違ってみんないいんだけど、でも心が「納得できなーい」って騒ぐ時があったりして、でも知的な自分がその声をかすかに聞いて「そんなふうに思う自分ほんと最低」「自分に幻滅」と落ち込んだりして。
で、黙らせようとするんだよね。もしくは聞かないように耳をふさぐ。
そうすると心は主張を改めて黙るんだろうか。知的な声に「ごもっとも、おっしゃる通り」と。
知性に見つからないように奥の方に押し込んで、そんな主張はないフリをして、立派に振舞っちゃったりするんじゃないのかな。

正しくないけど大事にしたい

この、心の声こそが大事。これこそが自分なりの体験であり真実。
知的に事実を理解することと、心が体験として味わう真実。もちろんどちらも大事。
事実は黙っていても人と共有できるけど、自分なりの真実は自分が表現しない限り人と共有できない。
共有しようよ!
自分にとっての真実は自分しか知らない。100人いたら100通りの真実がある。
自分の真実を知ってもらうこと、人の真実を知ることこそが人間としての喜びだと私は思う。
人生において自ら経験できることは限りがあるけど、人の経験もともに味わえるとしたら人生はその分だけ豊かになる。
自分が自分の真実を「最低、幻滅」と評価して、恥ずかしくて表現できないと思ってる人に声を大にして言いたい。
恥ずかしい真実なんてない!
すべての真実が尊い!

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